2019年11月14日
三笠の歴史 Part4
奈良での靴下修行を終了し、私が三笠に入社したのが、1982年(昭和57)でした。
その当時の弊社のメインのお取引先様は、かながわ生活協同組合さんで、売上げのほぼ8割を占めていました。
私が任されたのは、県内のスーパーさんや小売店さんで、当時は、車でラウンドして注文を貰ったり、集金したりといった仕事でしたが、
入って1年くらいが過ぎた頃に、販売のメインだったかながわ生協さんに対する売上げが半減し、会社存亡の危機がやって来ました。
この時に、かながわ生協さんを担当していた営業スタッフが、私に対して、このままでは会社はダメになるから、2代目のあなたは
その人が信仰していた(ある宗教)に入信しないと会社は良くならないと迫られました。
色々な集まりに連れていかれたりしましたが、全く興味が無く結局お断りしたので、その営業スタッフは辞表を出し辞めてしまいました。
そして、私は急遽メインのお取引先様のかながわ生協さんを担当する事になったのです!
何をして良いのか分からないまま、先代にとにかく毎日通えと言われ、それから、毎日必死に横浜市瀬谷区五貫目町にあったかながわ生協
さんの商品部へ通い詰めバイヤーさんの仕事お手伝いをしてなんとか仕事を貰い売上げも直ぐに回復して、その後は好景気になり昭和63年
に今の本社ビルを建てる事が出来ました。
つづく、、、
この写真は、5年前位に撮影した本社ビルです。
昭和64年から、一度大きなリニューアル工事を行いました。

デザイナーさんから、新商品のパッケージについてのプレゼンがありました。
素晴らしく良くできたプレゼンにびっくり!今までにない感じのとても良いパッケージに仕上がりそうです。
完成したら、このブログでも紹介させて頂きます。
その当時の弊社のメインのお取引先様は、かながわ生活協同組合さんで、売上げのほぼ8割を占めていました。
私が任されたのは、県内のスーパーさんや小売店さんで、当時は、車でラウンドして注文を貰ったり、集金したりといった仕事でしたが、
入って1年くらいが過ぎた頃に、販売のメインだったかながわ生協さんに対する売上げが半減し、会社存亡の危機がやって来ました。
この時に、かながわ生協さんを担当していた営業スタッフが、私に対して、このままでは会社はダメになるから、2代目のあなたは
その人が信仰していた(ある宗教)に入信しないと会社は良くならないと迫られました。
色々な集まりに連れていかれたりしましたが、全く興味が無く結局お断りしたので、その営業スタッフは辞表を出し辞めてしまいました。
そして、私は急遽メインのお取引先様のかながわ生協さんを担当する事になったのです!
何をして良いのか分からないまま、先代にとにかく毎日通えと言われ、それから、毎日必死に横浜市瀬谷区五貫目町にあったかながわ生協
さんの商品部へ通い詰めバイヤーさんの仕事お手伝いをしてなんとか仕事を貰い売上げも直ぐに回復して、その後は好景気になり昭和63年
に今の本社ビルを建てる事が出来ました。
つづく、、、
この写真は、5年前位に撮影した本社ビルです。
昭和64年から、一度大きなリニューアル工事を行いました。
デザイナーさんから、新商品のパッケージについてのプレゼンがありました。
素晴らしく良くできたプレゼンにびっくり!今までにない感じのとても良いパッケージに仕上がりそうです。
完成したら、このブログでも紹介させて頂きます。
Posted by 上海 MIKASA at 13:43│Comments(0)
│横浜
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